自信のなさは「ダメな子供」

思考の書き出し(メイン)

2018年6月から、7カ月。

自分のなかでたくさんのことが変わっていると思っているけれど、変わっていない部分もたくさんある。

 

私はもともと、自分に自信がない。

何をするにも誰かに答えを聞きたくなって、確認が取れたら安心した。
だから、正解がない時はとても不安で怖かった。

時折、答えを聞ける相手が見つからなくて、仕方なく自分の判断で行動した。
そのたびに失敗しては落ち込んだ。さらに自信を失っていった。

私は「ダメなやつ」なのだと思って生きてきた。

だから、他の誰よりも努力が必要で、ダメな自分から変わりたかった。

 

サードプレイスを得て、いろんな恩恵を受けて、刺激をもらい、ようやっと自分をもう少し信じていいのだと知った。

もう少し、自分の判断や意見を言ってもいいのだと教えてもらった。
たとえそれで失敗しても、次を頑張ればいいのだと知った。

だから少しずつ行動ができるようになって、夢を追いかけてみようという気になって、自分の意志で自分の道を歩んでいくと決めた。

いろんな人が褒めてくれて、認めてくれて、応援してくれている。
それが何より心強くて、自分を信じてみようと思えた。

 

でも。それでも。

 

未だ自分は「未熟」で「幼く」て「拙く」て「何もできない」「やる気のない」「わがまま」な「子供」のようであると思っている。

こんなにも褒めてもらったり認めてもらったり応援してもらったりしているのにも関わらず、だ。

私は「ダメな人間」なのだという意識が、気持ちが、油断するとすぐに浮かんでくる。

この自信のなさはどうしようもなく根深い、私の課題なのかもしれない。

 

コンプレックス。手ごわい相手だ。

抱えたまま生きる道もある。克服を目指す道もあるだろう。

私はどちらを選ぶべきなんだろうか。

 

「泣き虫でわがままな子供」という、私の中に住み着いているそれと、私は仲良くできるんだろうか。

自分で、その「子供」を責めてしまっている気がする。「泣くな」と。「わがままを言うな」と。
「何もしてないくせに」「何もできないくせに」「だからお前は駄目なんだ」

誰に言われたわけでもない。ただ、言われるのが怖くて、自分から先に言い出している。
自分で先に傷つけておけば、人に言われたときの痛みを軽減できると思っているから。痛みに対して身構えることができるから。

 

でも、私自身が、私を認めてあげなければ、誰が私のことを認めてくれるんだろう。

その姿は私にしか見えていないのに、私以外の誰が、「泣き虫でわがままな子供」を、かわいがってあげられるのだろう。

認めてあげたい。褒めてあげたい。可愛がって、甘やかしてあげたい。
でも、ちゃんと成長もしてほしい。立派な大人に育ってほしい。

どこまで頑張ったら、褒めてあげたらいいんだろう。
何をしでかしたら、叱ってあげればいいんだろう。

私が、私のことで精いっぱいなのは、自分と言う「子供」を育てようとしているからかもしれない。

「子供」がもう少し大きくなったら、もう少し自由に動けるようになるのかな。

 

仲良く手をつないで、笑い合える日が来るのかな。