こんにちは。きしめんです。
これは、わたしが人生で初めて身近な人の死を体験したときの話です。
前回の続きとなります。
前置き
この記事は、わたしがオンラインコミュニティ内のSNSで書いた当時の投稿を元にしています。
ほぼ編集せずにそのまま載せているため、そのまま読むと一部前後のつながりが分かりづらい点があります。
見出しタイトルの日付は、本文を書いてSNSに投稿した日付です。
1日に何度も投稿している場合は、投稿ごとに区切り線をつけています。
前・中・後の全三編となっています。(今回は中編です)
前回の記事→祖父の死を体験した話。前編【お葬式】
4月15日:祖母
今日、母は葬儀屋さんと打ち合わせに行ってきた。そこで祖母とかなり揉めたらしい。
祖母は気が動転しているのと、元々記憶力が低下し始めていたこともあって、言っていることがなかなかに支離滅裂だそう。祖父が亡くなる時も、落ち着いているように見えて話すことがおかしかったらしく、少し心配だ。
家族だけでお別れするのは祖父の意向であり、母は祖父にも祖母にも何度も確認していた。家族以外に誰も呼ばなくていいのね?と。それを肯定したのは祖父と祖母だ。
しかしここに来て祖母が「そんなことを言った覚えはない」と言い始めてしまい、揉めたそうだ。
母は母でなかなかのストレスを抱えているので、愚痴をたくさん話す。父もわたしもそれをうんうんと聞く。逆に言えば、母のためにできることは話を聞くことくらいしか無いのだろうと思う。
母の話を聞きながら、家族の死って、大変なんだな…と月並みなことしか感想を抱けない自分を、情けなく思った。
少し話がズレるけれど、耳が遠くなることは本当に大変なことなのだなと思う。
祖父も祖母も、もう耳が遠くて、意識して声を大きくし、ゆっくりと話さないと通じないくらいになっていた。
親戚の集まりではずーっと祖父母のペースに合わせられるわけでは無いので、祖父は話に入ることができなくて、無言の時間が増えた。
祖母は無言になることはなかったけれど、逆にまるでちゃんと聞いているかの如くうんうんと頷きながら話に加わるものだから、会話にズレが生じてくる。恐らく聞こえていない部分は想像で補っているのだと思われる。
それが家族間の雑談だけならまだ良かったが、祖父の診察に祖母がついて行った際にも発揮されてしまって医師の話を想像で補いながら家族に話すものだから、医師の話と祖母から聞いた話の食い違いがそれはもう大きかったそうだ。
祖父が倒れる前の診察で検査のために腋の下から骨髄液を採取したらしいのだが、何故か祖母の中では首元から血の塊を除去した話になっていた。
母がその食い違いを知ったのは祖父が亡くなった後、医師から死因の説明を受けた時である。
見栄やプライドや意地といったものや、心配をかけまいとか話の流れを邪魔すまいなどの配慮や、もっと他の、数多ある要素要因が絡み合って、「聞こえなかった」「今なんて言ったの?」「もう一回言って」などの言葉を出せなくなるのかなと思う。
健康体がいかに大切かを考えさせられている。
4月16日:葬儀前日
明日は、祖父の告別式。家族だけでとり行われる。妊婦である従姉は万が一にも新型コロナに感染しないよう、大阪に居るまま。祖父の葬儀にはオンライン配信で繋いで参加することとなった。
母から、「最後に一言ずつ祖父に言葉を贈るから、何か考えておいて」と言われた。お疲れ様、にしようかなと思う。
祖父は、生前にとても仲良くしていたMさんという友人がいて、Mさんご夫妻と祖父母で何度か一緒に旅行に行くくらい仲が良かった。Mさんはいかにも元気なおじいちゃんといった感じで、長生きしそうだと思っていたという。
しかし、Mさんはある日突然亡くなった。祖父にとって、それはとても大きなショックを与えるものだった。ついこの間までピンピンしていたのに、急に逝ってしまうなんて、と。Mさんの方が絶対に長生きすると思っていた分だけ、ショックが大きかったというのもあるだろう。
最近の祖父はいつも「もうすぐ死ぬんだから」とぼやいていた。元気に歩き回っている頃よりもずっと、弱々しい声だった。自分もMさんのように、ある日突然死んでしまうのだろうかと、不安だったのかもしれない。Mさんの葬儀に参加して以降、祖父は見るからに衰えていった。
「苦労かけてすまんね」「ホントにありがとう」「もう何も思い残すことはない」「幸せ者だ」
ここ2年ほどは、会うたびにそう言っていた。
いつ死ぬかもわからない。来年、来月、来週、明日…突然死んでしまうかもしれない。祖父のなかで、死期が近づいていることと、Mさんの急死を目の当たりにした衝撃とで、心の底から「いつ死んでもおかしくない」と感じていたんだろうなと思う。
そんな、不安のようなものを抱えながら過ごしていた日々が、静かに幕を閉じた。
お疲れ様、と、そう言いたい。
→後編へ続く。