こんにちは。きしめんです。
今日はこのあいだ書き出した思考整理の産物を投下したいと思います。
自信をつけるとともに遠慮がなくなっていく言葉たち
自信のなさが和らいだ分だけ発言に遠慮がなくなっていくのは、ある意味必然だとは思うけれども、何でもかんでも言ってOKになったわけじゃない。
相手のことを考えながら、何を言って何を言わないか、言うとしたらどんな言葉がいいのかを判断して話をするのがよい。
気が付いたときには既に失礼なことを言ってしまっていたとして、その失敗が取り返しのつかないものでないことを祈るだけなんていうのは博打にも程があるので、事前に心算(こころづもり)をしておくべきだろう。
取り返しのつかない失敗の存在は、けっして遠くはなく、注意が必要なのだと。
最近自分の言葉に自信がなくなってきた気がしていたんだけれども、それは自分自身に自信がついてきて、発言に遠慮がなくなってきたと感じたからなのだろう。
私は自分のことばで誰かを傷つけたいわけではないし、不快な思いをさせたいわけではない。
だから遠慮のない自分の発言に怖くなって、なるべく言葉を発さないことを選んでしまいそうだった。他愛のないことと当たり障りのないことだけにしようとしてしまっていた。
でも、私の言語化に対する好きの気持ちはそんなもので抑えられるほどヤワではなかった。
そう簡単にやめられるものでも、抑えられるものでもない、私の一部なのだ。
思考整理としての言葉たち
私の言葉はとにかく長い。そして紡がれるスピードが早い。(らしい)
会社員時代からそれは変わらない。
読む人によっては合う合わないがあると思う。時に、読んだら疲れてしまうものにもなり得るだろう。(少し悲しくもあるが、仕方ないと割り切るようにしている)
長くて早いのは、読み手をあまり意識しないからこそのものでもある。
自分の思考をとにかく書き出して、自分の頭の中を整理したいという気持ちから始まっているので、誰にもわからずとも自分が分かっていればよいと思っている。
ただ、たまたま、そんな自分のためのことばが「面白い」「読みやすい」と評価を得たのだ。(どちゃくそありがたい)
私はオンラインコミュニティの独自SNSのなかに、個人チャンネルという好き勝手書き込めるスレッドを持っている。そのスレッドのタイトルが『きしめんの思考整理会議』だ。
このタイトルにあるように、元々そこは私の思考整理をする場として活用するものだった。
私が思ったこと、感じたことを言葉にしておいておく場所。
時に混乱した自分を鎮めるために、時に落ち込んだ自分に向き合うために、時にせっかくの学びをなるべく逃さないために。
すぐにごちゃごちゃしてしまう頭の中を言葉に変換して出しまくる場所。
そうして置いていったものを見て、面白がってくれる人が1人でも居たら万々歳である。
褒められたポイントを取り違えてはいけない
そういう意味では、近頃の私はきっと欲張っていたんだろうなぁ。驕っていたとも言える。
というのも、私の思考整理の産物(文章)に対しての「面白い」というのは、必ずしも文章の上手さを褒められているとは限らないのに、「私は文章を書くのが上手い」「文章での発信が上手い」と勘違いして調子にのありすぎてしまっている節があるからだ。
オンラインコミュニティ『ライフエンジン』に入って、なりゆきで個人チャンネルを設けて、会社員時代から延々と自分の考えや感情を書き連ね続けていった結果、一部の方に声をかけていただくようになり、助けてくださる方が現れ、相談に乗っていただき、今の私がある。
自分にとって思考整理における言語化が当たり前すぎて、文章が長いことや紡ぐスピードが速いことなどは指摘されるまで認識していなかった。
加えて「読みやすい」「面白い」と言っていただくことが出てきて、驚きとともに嬉しさを感じ、「自分は文章を(長く早く)書ける」ということに対して自信をつけることができた。
けれども、私の個人チャンネルでの思考整理を見て面白がってくれた人がいたからといって、私の発信そのものが評価されたかというと微妙だと思う。
発言に力があるわけじゃないし、個性が飛び抜けているわけでもない。
思考整理のもようを観察できるから面白いのであって、理解しやすい言葉だから読みやすく感じるのであって、発信が上手いかどうかはまた別問題。
「発信が上手いのだ」と過剰に勘違いしてはいけない。
私の発信そのものを「上手だね!」と褒められているわけではなく、私の思考の垂れ流しを面白いと思う人がいる、というだけであるのだ。
自分を思いあがらせないために、いまいちど、それを認識しておこう。