わたしの中は空っぽなのだと思っていた。何もないのだと思い込んでいた。
実際にはそうではなくて、気付かないうちに自分の中に取り込んだものが確かにあった。
それは小さい頃からの習慣や望まずとも積み重ねた経験などである。
自ら望んで掴もうとしたものを掴んだ記憶が無かったから、わたしの中には何も無いのだと思っていたけれど、ちゃんとあったのだ。
わたしの中身の存在に気付いたけれど、そのどれもが取るに足らない物のように思えた。
あまりにも無意識に手に入れ、それを手に入れられない人なんていないとすら思えるほど、当然であったから、その価値に気付くことは難しかった。
試しに職場で自分の中身を出してみたこともあったけれど、ことごとく使えない物扱いされ、やはり価値は無いのだと思い込むのは容易かった。
けれど、わたしの中にあるものは、間違いなく価値あるものなのだと教えてくれた人がいた。
絵が描けるとか、文が書けるとかいうスキルだけじゃなくて、取るに足らないと思っていた経験や習慣も、拙い思考や感情も、無価値なものではないのだと。
私はどうしても、私の中の物を外に出したくて仕方ない生物らしい。
誰に言われるでもなくブログを始めた。誰に望まれるでもなくSNSで言葉を吐いた。
思いつく限りの言葉を垂れ流すのが当然の営みのように。
たとえ無価値であろうとも、私は私の中にある物をひたすら表に出す生き物なのだ。
ただ厄介なことに、出すものに変化がないと飽きてきてしまう。つまらなくなってくる。でも出してしまう。
単調なままでは苦しみが生まれ、出すものも悪くなっていく。
だから私は、私の中身をもっと充実させて、飽きのこないほど様々なものを出せるようになりたいと思うようになった。
だから新しいことに触れ、見たことないものを知り、知らなかったことを学びたいと考える。
無価値だと思っていたものが、そうではないと知った。
だとしたら、私がさも当然としている、私の中の物を外に出していく行為だけで、人生を歩み、終えることはできないだろうか。
私自身の飽きがこないように、私の中身を充実させて、延々と私の中身を表に出し続けていくことで、生きていくことはできないだろうか。
私の中のものを出すことで、何かをもたらすことはできないだろうか。
世の中や社会だなんて贅沢は言わないから、私の身のまわりにだけでも、何か良いものをもたらすことはできないだろうか。
もっと具体的に考えたら、実現できたりするのかな。