【フリーランスの自己分析】目的なんてなく勉強することにしてみた

雑記

特に目的もなく「勉強したいなぁ」と思うのはどうしてなんだろう。
(ここでいう勉強というのは、いわゆるテストで良い点を取るための努力のことを指す)

学生の頃は、高校に入るためとか大学に受かるためとか単位を取るためとか、一応目的があったわけだけど、そこに”勉強したい”という思いはほとんど無かった。
できることなら勉強から逃れたかったし、遊んでいるだけで目的が達成できるなら、それに越したことはなかった。

そして今、”勉強したい”と考えている自分は、”何のために”という目的を持たない。
なんとなく、テストで良い点を取るための努力をしてみたいだけだ。

そこにはやはり自己承認欲求があるのかもしれない。

勉強できる奴=テストで良い点取れる奴=優秀だと褒められる・頭が良いと認められる奴
みたいな方程式を、学生時代に埋め込まれてきたが故の、”勉強したい”なのかもしれない。
つまり、勉強という行為を通じて人から認められたいだけなのかもしれない。

友人が言った、過去の自分を救う、という言葉が時折、何度も頭を過る。

過去の私は優秀でありたかった。
優秀であると周りから褒められたかった。
反面、私なんかが優秀であるわけがないし、なれるわけがないと諦めていた。
本当に優秀な誰かに比べたら、私なんて足元にも及ばないのだと。

小さいものから大きいものまで、思い込みがいくつも重なっていたと思う。
優秀な奴は努力しないでも優秀だとか、自分なんて何の取り柄もない平々凡々な人間だとか、勉強できない奴は愚かだとか…
…テストの点数とコミュニケーション能力でヒエラルキーが決まるだとか。

過去の自分を救うというのは、どういうことなんだろう。
当時抱いていた欲求を満たすことだろうか。
当時の自分のような人間を少しでも減らすことだろうか。
当時の自分が抱えていたものを、今の自分が全て取り払うもしくは受け入れることだろうか。

当時の自分は、将来を上手く思い描けなかった。
強いて言えば、会社勤めが無難かな、就活で自分だけ落ちるのは嫌だな、と思っていたくらいだろうか。

周りから、どんなものが一般的なのかを一生懸命読み取って、それに沿って動いていれば問題ないだろう、くらいに思っていた。
主体的にアレコレとやりたいことをやっていったりはしていなかったし、やろうとも思っていなかったかもしれない。

やりたいことをやろうとしても、大変で苦しい思いをするだけだと決めつけていたのだろう。
でも実際は、どの道を選んだところで、大変で苦しいのは変わらない。問題は必ず起きるし、嫌いな人に出会うこともあるし、永遠に平坦な道なんて存在しないだろう。

それでも、やりたいことをやらずに、できるだけ平坦に近い道を歩もうとしていた。
否、平凡で一般的な道が平坦な道だと思い込んでいた。

まさか自分が会社勤めであんなにしんどい思いをするとは思ってもみなかったし、ましてや会社を飛び出してフリーランスになるなんて誰が想像しただろう。

人に認められたかったかつての自分と、今の自分は何が違うだろうか。
過去の自分を救うことはできているだろうか。

少なくとも、救ったな、という実感は無い。
未だ人に認められたいと強く思うし、きっとこれからもずっと認められたいと思い続けていくのだろう。

ただなんとなく、昔の自分とはちょっと違うな、と感じる。
目に見えるほどの大きな変化であるかと問われると自信はないが、経年によるものとは違うカタチで、わずかながら変化しているのではないかなと思う。

それが成長なのか、進歩なのかはわからない。
でも、変化はしている。

過去の自分から変化した今の自分は、これからどう変わっていくのだろう。
いずれは、過去の自分を救えるのだろうか。

勉強したい思いに駆られるままに勉強したら、また何か変わるんだろうか。

わからない。けど、ちょっとやってみたいな。

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