「本当にやりたいこと」が世界のどこかに存在すると信じて疑わないのはどうしてか

雑記

いつもいつも、同じところをぐるぐると回っている。

「わたしはいったい何がしたいのだろう?」

そればかりを、何度も何度も考えている。

「これだ!」と思うものを手にしているはずなのにも関わらず、だ。

 

漠然としすぎているからだろうか?
自分に自信が持てないから?

自分が何を好きなのかわかっていないから?

私の理想の生き方は「好きなように生きる」こと。
仕事も、休みも、遊びも、学びも、自分自身で選択し、自分の好きなように進んでいくこと。

だから、今の働き方を選んだ。
いつでも、どこでも、私のやりたいようにやっていけるように。

 

じゃあ、わたしの「やりたい」って何なのだろう?

「わたしはいったい、何がしたいのだろう?」

 

ふと思う。

それって、あらかじめ決めておかなければならないものなのだろうか?
「わたしにはきっと、やりたいと熱望する何かを持っている」と信じて疑わないけれど、それって本当なのだろうか?
「やりたいと思えることは、探していればいつかきっと見つけられる」と信じて疑わないけれど、それって本当なのだろうか?

探す必要ってあるんだろうか?本当に探して見つかるものなのだろうか?

“「本当にやりたいこと」幻想”という話を聞きかじったことがある。

「わたしが本当にやりたいことはこれじゃない」とよく言ったり聞いたりするけれど、まるで「本当にやりたいこと」を見つけなければいけないような口ぶりで、探せばいつかきっと見つかるような言い方で。

でもどうして、見たことも聞いたこともない「それ」を、わたしは在ると信じて疑わないのだろう?

 

その存在を信じていて、何かメリットがあるのだろうか。

「やりたいことが見つからない」と悩み、何度も何度も考えて、進もうとしている足を止めて、方向を変えて。何かを見つけるたびに、何かにぶつかるたびに、一喜一憂して。
それでわたしは何を得ることができたのだろう?

 

まるで、「本当にやりたいこと」を持っている人が正しいかのように。
そういう人たちが格好良く見えた。立派に見えた。ただ、それだけなのかもしれない。

ただなんとなく、みんな「そういうほうが良い」って言っている、思っているような気がしただけかもしれない。

まるで、「本当にやりたいこと」を持っている人が目指すべき理想像のように。
わたしもあのようになりたいと思うようになって。
存在するかもわからない、私にとっての「本当にやりたいこと」を探すようになって。

わたしは結局、周りから見て正しくありたくて、格好良くありたかっただけなのかもしれない。

 

「本当にやりたいこと」って、本当に在るの?本当に見つかるの?
見たことも聞いたことも、触れたこともないのに、どうして在ると信じられるの?見つかると思えるの?

 

「わたしはいったい、何がしたいのだろう?」

それってきっと、一言では説明できないし、なんなら説明できるものではなくて、言い表せないまま人生が終わるかもしれない。

けれども、それでもいいんじゃないだろうか。

今やっていることこそが、わたしのやりたいことなのだ。

誰のせいでもなく、誰の手を入れたわけでもなく、まぎれもない自分の意志で選んだからこそ、今がある。

どんなにぐちゃぐちゃであろうと、どんなに苦しくて悩んでいようと、それが自分の選んだ道で、そのとき自分でいきたいと思って選んだ道なのだ。

しんどい仕事をすると決めたのも、「休んだらいろいろ面倒くさい」と思ったから、自分でそう決めたのだ。
やるべきことやらずにゲームすると決めたのも、「嫌なことより楽しいことをしたい」と思ったから、自分でそう決めたのだ。

すべてのことは、自分の意志で決めたことであるのだと、そう思う。

だからきっと、今やっていることこそが、私自身がやりたいと思い、自分で選び、やっていることなのだと、そう思う。

 

たぶんね。

 

「本当にやりたいこと」がどこかにあると信じて疑わないわたしでいるかぎり、「本当にやりたいこと」を持ったわたしには、きっとなれない。

「本当にやりたいこと」って、本当はもう自分で持っているはずで、ただただ気づいていないだけ。
無意識のうちに自分で決めて選び取って進んでいる。無意識だから気づかないけれど、わたしはもうすでに、やりたいことをやっているのだ。

 

きっとね。

 

自分で書いていて、どこか腑に落ちないのはきっと、未だ「本当にやりたいこと」の存在を、信じて疑わない自分がいるからなのかもしれない。

「本当にやりたいこと」幻想。

幻想と思うか、真実と思うか。

 

それを選び取るのも、自分自身だ。

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